言葉の解釈を狭めるな
「働かざる者食うべからず」という言葉があるが、これは概ね真理を捉えていると私は思う。
自分は不労所得だから働いてないよとか、他の人が飯作ってくれるから働いてない、とかあるかもしれない。
後者の場合はやむを得ない事情で働けないから他者の助けを借りて生きているパターンもあるため、背景事情を考慮せずに非難することはできない。
では不労所得の人は本当に働いてないのか?
それは違うはずだ。
厳密には、今この瞬間はもしかしたら働いてないかもしれない。
でも不労所得を獲得するまでの過程に、何かしらの行動をとったり労働的なことをしているはずだ。
食べ物を作る人は作るという行動をしているし、食べ物を買うにはお金がいる。
拾って食べる人も、探すという行為は必要だ。
何が言いたいかというと、働くという字は人が動くと書く。
つまり何かしらの行動をした結果食べ物にありついていれば、それは働いた結果として得た成果だ。
だが語句についた印象のせいで、働くということの定義が狭まってしまって、そのせいで窮屈な思いをしている人たちも少なくないだろう。
形や行動は犯罪にならない程度ならなんでもいいのだ。
大事なのは、行動を起こすことだ。
行動を起こしたものがたどり着ける成果、その最も身近な例が生きていくのに必要な
食べ物だ。
努力という言葉があるが、あの言葉も人の行動を狭めてしまう。
必死になって汗水垂らさないといけないなんてことはない。
自分が気楽にできることから始めるだけでも十分なのだ。それで物足りなくなったら増やせばいい。
ちりでも同じようなものをたくさん集めて積み重ねればそれは富となり得るかもしれない。私たちは、富のかけらをたくさん集めれば富を作れるのだ。
その富のかけらがとても小さく、集めて塊にするまで時間がかかって成果が見えないから、みんな嫌になってしまうだけだ。
塵も積もれば山となる、というのは、自分が気楽にやって行けることの継続で達成できてしまうのだ。みんな難しく考えすぎなのだ。ずんだもんなのだ。